庄内川下流部のビューポイント?(11):石黒・田中

32 万場橋・岩塚町

 

 ここは庄内川の川止め時等の宿場があり古くから栄 えていた(対岸万場町も)道は佐屋街道で船旅をきらう人(松尾芭蕉・明治天皇さんらもそうだった様)は、熱田宿・古渡・岩塚・神守・津島・佐屋・弥冨・桑名約32kmの陸路(潮流を利用し、大船使用で船賃が安いため、佐屋から渡し船を使うこともあったと聞く)を使った。

 この区間は、戦後しばらく松並木も数本残っていたし、堀田式水田耕作している人もいた。昔の絵図には馬を乗せた大船があったようだ。

 

 戦時中に軍の計画で南北はJR関西線から北の稲葉地、鳥居通り迄。東は今の地下鉄線のすぐ西から西の庄内川迄を三菱重工用地として、一部八田駅から引込み線が用地に入っていた。

 

 私の知る戦後22・23年頃は戦争の賠償工場に指定され木造建屋内に機械がギッシリ詰まっていたし、スパンの広い鉄骨建屋が爆撃で曲っていた、また、コンクリート製プールは焼入れや鋳物の冷却水プールの様で電柱程の太丸太が打れていてそれを抜く作業方法を今も覚えているし、プール内に魚が居て釣って食べた。

 ともかく広大な土地を軍用としていたし、今の高速道路の下は30間道で道幅を確保していて一部耕作しており爆弾穴もあり、3年物のフナが多かった。烏森と黄金間は、埋立整地され雑草が砂利道いっぱい、ウサギの餌とりには困らなかった。

 中村幹線用水路で止まっていた烏森変電所と岩塚変電所が当時あり、オニのツノの様な碍子が何本も突立っていた。冷却用水が温度一定で流れ、水量もあり飲用にもしたし、生物も沢山集っていた。中村の大鳥居の根元迄、まる見えだったが水田内のアゼ道しかなく、自転車は大回りだった。       

 現向島の稲葉地町辺りに大池(校庭くらい)5ヶ所もあり各々名前があり型も深さも異なり水源水路は稲葉地用水で荒子川源流でもあり、幅2間で丸太を2~4本並べ渡し、板張りし、その上に雨風を防ぐ小屋を立て、固定式の1間角の四手網を設置、 年中エビや魚を獲って生計する人が用水上に何人も住んでいた。獲物は自身の食用だけでなく家計分の足しになる程とれていた。また、池で繁殖していた。

 梅雨明けになると柳瀬の新バエと呼び、行商が売っていた中にエビやドンコその他色々入ってる雑魚探しで遊び、母親によく叱られた。

 

 25年頃から市が北海道や九州の炭鉱離職者用住宅としてコンクリート瓦やトタンぶき屋根の一棟2戸建を国策として建てて団地のはしりとなり、名古屋市は中村・中川・港・南区に、鉄筋造りの団地が多く作られていった。

 重工も縮小され、つい最近シンボルだった第一ボイラーの大煙突が解体され岩塚工場は姿を消し、今は少し空地が残ってるが駐車場用か?アマゾンの集積基地となっている。